あの人の「男道」

金スマ」(TBS系)今日は2時間スペシャルで「男・清原和博、母と子の物語」と題して
昨年限りで現役を引退した“球界番長”清原和博さんの波乱の半生を紹介。
新聞のテレビ欄には「野球にまったく興味のない女性にこそ見て欲しい」とあった―
視聴率とれなさそう(こら)。若い人は、みんな裏の「某音楽番組」に流れるぞ。
というわけで、我々は見てあげるのさ。
・おまかせキヨハラ電器店
番組では再現ドラマで「野球少年・和博」が「高校野球のスター選手」となり「プロ野球界の番長」となるまでを追う。
清原さん本人もスタジオ出演、熱狂的巨人ファンでもある中居正広さんに自らの「人生の転機」の思い出について
語っていただく。
そして。人生の決断の節目節目に、必ず“おかん”の支えと叱咤激励があったという。
もうすぐ母の日。いくつになっても、感謝の気持ちを忘れぬよう。
・こいつには敵わない、と思った相手
王貞治長嶋茂雄に憧れた野球少年時代。頭角を現したリトルリーグ時代。両親や姉が、和博少年の夢を支えた。
中学時代には名門高校のスカウトが殺到。その結果PL学園高校に入学し、無二の親友となる天才投手・桑田真澄と出会う。
清原・桑田の「KKコンビ」を擁したチームは3年連続で甲子園に出場。一大旋風を巻き起こし、二人は国民的スターになる。
・一応は在京球団
そして1985年秋。日本中の注目が集まる中、プロ野球のドラフト会議が行われた。
憧れの巨人軍に1位指名してもらえる!と信じて疑わなかった清原だが、その思いは打ち砕かれた。
蓋を開けてみれば、巨人の首脳陣が1位指名したのは桑田真澄。大学進学を希望していた桑田を“強行指名”したのだ
wikipediaの説明を引くと「当時の巨人には一塁に中畑清、三塁に原辰徳@現巨人監督」という面々が居たので、
もし清原が入団しても出場機会が少なかったかも知れない・・・とある。そう言えばそうでしたな)。
巨人に振られた清原は、それまで眼中に無かった埼玉のパ・リーグ球団、西武ライオンズへ入団することになる。
・新人類は戦う
彼が入団してからの西武は黄金時代を迎え、1994年までの間にリーグ優勝8回(うち日本シリーズ優勝6回)を達成。
1987年には日本シリーズで巨人と対決して「あと1イニングで日本一」というところで、清原が号泣した・・・
なんてこともあった。
その試合でマウンドに居た工藤公康投手(46歳にして現在も横浜ベイスターズで現役)は、当時の事をこう語る―
「(一塁手の)キヨが泣いてるもんで。(涙で打球が見えないだろうから)
あいつの守備範囲には打たれちゃいけないと思った」。確かに(笑)。
その狙い通り、工藤さんは最後の打者を内野ゴロではなくセンターフライに打ち取った。中堅手秋山幸二外野手
(現・福岡ソフトバンクホークス監督)が泣いてる筈もなく、ウイニングボールはグラブにがっちり掴まれた。
・よこしまな願い
強いチームの中で活躍し、「熱パ」の一時代を築いた清原さん。しかし、ある疑問が頭をよぎるようになる。
「自分は果たして、このままでいいのだろうか」。王&長嶋に憧れた少年時代の夢は、どうしても諦めきれない。
そして1997年、清原さんはFAで巨人に移籍。4番打者を並べた“王様将棋打線”の一角を構成する。
阪神吉田義男監督は「清原君が入団するなら、縦縞のユニフォームを横縞にしてもいい」と、全力で誘った・・・
なんてこともありました。
・思う人には思われない
2000年には長嶋巨人と王貞治率いるダイエーホークスが対決。「ONシリーズ」で巨人が優勝。
清原自身はといえば・・・巨人入団後から度重なる怪我に悩まされた。
2004年、シーズン中のある日突然「来年は契約しない」と言い渡されることになる。
「何故みんな、僕の道を捻じ曲げようとするのか。僕はただ、まっすぐ進みたいだけなのに」。
だって巨人だから。巨人の選手になるという事は、そういうことだ。長いものに巻かれて己の道を譲って「紳士」で
居なければならない。
申し訳ないが。やっぱり彼は「巨人のチームカラーに向いてない人」だったのかも知れない。
本人は「まっすぐ」進んでいるように思っても、それは道無き道だった。
どんなに愛しても想いの届かぬ相手、それが巨人。
清原さん、阪神に入ってれば良かったのにねー。少なくとも、巨人みたいなポイ捨ての仕方はしない。
・思いきり空けたピアスには
翌2005年、複数年契約があと1年残っていたこともあって巨人に残留。飼い殺しの日々の中、清原さんは肉体改造に励む。
この時期から(巨人では原則禁止の筈の)ピアスをつけるようになったが・・・これにも理由があったそうで。
「巨人軍に契約交渉の場で煮え湯を飲まされた悔しさを忘れないため」当初は刺青をしようと思ったのだが、
母親にそのことを話したところ猛反対され、ピアスにしたという。
その方がいいよ。健康な皮膚に刺青はよろしくない。
・「男の花道を作ってやる」
その清原さんを熱心に誘ったのが、オリックスバファローズ監督の“アンギラス仰木彬氏。
オリックスブルーウェーブ大阪近鉄バファローズが合併した球団の指揮を任された名将が、清原を必要とした。
実はこの時、仰木監督はガンに冒されていた。オリバファ再建を最後の仕事と決めておられたのだろう。
そしてその最後の仕事を、男・清原と一緒にやりたいと願ったのだろう。
しかし。清原さんが巨人を退団してオリバファ入りが決定した2005年12月、仰木監督はこの世を去った。
同じユニフォームを着て戦うという夢は叶わなかったが、清原さんは仰木監督の遺志を継ぐことを決意する。
・地元のファンは有難い
オリバファに加入した「男・清原」を、大阪のファンは熱烈に歓迎した。
2006年は活躍したものの、2007年に左膝を手術してからは出場機会が減り、シーズン中1度も1軍出場できず。
そして2008年、引退を決意。メジャーに移籍していた盟友・桑田さんも引退を表明しており、清原さんの「おかん」も
これまでの野球人生での活躍を労(ねぎら)ってくれた。
で。10月1日の京セラドーム大阪、対福岡ソフトバンクホークス戦で引退セレモニーが行われたのである。
打席に立つ時のテーマ曲だった「とんぼ」を、長渕剛さんが熱唱。清原さんも号泣したのであった。
“球界番長”清原、男の花道。少年野球6年+高校野球3年+プロ23年という長きにわたる野球人生の集大成だった。
・恩返しをするなら
そしてこれから、彼の「男道」はどこへ続いて行くのだろう。
将来は指導者や監督を目指しているそうで。いつか桑田さんとの「KK監督対決」が見られるのだろうか。